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時間に質量はあるか?

あ、やべw 無いかもしんない、、、。

↓はクリックで拡大できます。

時間に質量はあるか1訂

運動方程式とF=dm/dt(m:時間の質量、t:時間に流れる時間(メタ時間))を連立するかな 似たような変数が出てくるからごっちゃにしないようにね

という話になり。

理系の学生の方から下記の画像のような式をいただきました、クリックで拡大できます。

時間に質量はありまーす修正版

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロスセネカアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

参照元 Read the original here: http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/#ixzz3oMbAP3HZ
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うつ病や障害者の自立について新たに言いたいこと

うつ病のような状態になったことがある経験で語ると「うつ病になったときに病院に行けないのを知ってほしい」という言葉が出てくる。病院に普通に行ける程度のうつ病なのであれば、多くの場合において緊急的もしくは可及的速やかな治療は必要ではないと思う。『病院に通院する=ある程度の日常生活ができる状態』。問題は、私もそうだったが病院に自力で通院できないくらいの うつ病の時に できることがあるのかということなんだ。『病院に自力で通院することができない=日常生活ができない状態』になると本当に悲惨なんだ。救急車を呼んでも運んでくれるのだろうか??

うつ病などの精神疾患は嘘がつけるという理由で厳しい目を向けられているのは知っている。もちろん、そんな嘘をつかれたらたまったものではないのは理解できる。かといって、本当に精神疾患になってしまった人が必要な治療を受けられなくならないようにするということも必要だと言いたい。

次に、障害者の自立についてだけれども、私は子供をつくるのであれば、もし息子や娘がなんらかの疾病を抱えてしまっても私が生涯を保障できるくらいになるまで子供はつくらないようにする責任があると考えている。その責任がとれないのであれば、子供をつくる資格がないと考えている。私は、こういう考えだが、他の人は、とくに何も考えてなかったり、私とは真逆の考えの人もいるだろう。では、「子供が多少の障害をもって生まれてきても社会保障でなんとかなるだろう」と考えて子供を作った人はどうなるだろうか?近年、障害者の保護から自立という方向へ向かって久しいが、「子供が多少の障害をもって生まれてきても社会保障でなんとかなるだろう」と考えていた人の意見はとりいれたうえでの方針転換なのだったのだろうか?たしかに、人として生まれてきたからには自立した生活をおくることが幸せなのだろうと私も思う。しかし、自立という言葉が、自己責任論のように、責任転嫁の道具のように過度に使われないようにする必要もあるということを忘れるべきではないと考える。怠けられてもこまるが、理不尽な目にあわれても困る。そして、知的障碍者や情報弱者のなかには世の中が保護から自立の方向へ方針転換したということを知らないひとだっているだろう、そういう人にそれを知ることができる状況の構築も必要だと言いたい。

とても難しい課題だが、関係者の努力による現状のさらなる進歩を強く期待する。

 

 

 

ヤクザとニートは、どちらが社会的身分が上か?

ヤクザとニートは、どちらが社会的身分が上か?

さて、ふと思いついたニートや引きこもりをやっている人が社会復帰をするのはとても難しい世の中になってきているので「いっそのこと、まっとうな道を歩むより極道にでも走った方がニートや引きこもりは、社会的に現状のままでいるよりは幸福になれるのではないか?」と発想したのが発端なのだけれども、そこで迷ったのが、「ヤクザとニートってどっちのほうが社会的地位が高いのだろう?」とつまづいたのである。(※ここでは、狭義の意味のNEETではなく、広義の意味でのニート(単に無職な人を言う場合につかう言葉)としてニートを定義している。)

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【ニートとヤクザが社会から嫌われているという点】

・ニートは働かない、怠け者ということで社会から蔑まされている。
・ヤクザは、反社会勢力という意味で、社会から問題視されている。
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では、どちらのほうが、より社会から嫌われている(社会的地位が低い)だろうか?まず、ヤクザ屋さんにも、理由があって極道に走った人もいるという点を考えたが、ニートにも理由があってニートになっているという人もいるという点があるだろうから、ここはイーブンではないかと思う。次に、悪意をもって断固として働かないニートを考えると、悪意をもって本当のワルとしてヤクザ屋さんをやっている人のことを考えるとここは、イーブンであると考えた。

ここまで考えて「ヤクザ屋さん」という言葉を自分で使っている点を考えると、「ヤクザ屋さん」もしくは「やーさん」と敬称をつけられてきた歴史はヤクザにはあっても、「ニートさん」と敬称をつけられてこなかった歴史を考えれば、ヤクザの方が社会的地位は上なのではないか?

しかし、昨今では暴対法に加えて、暴力団排除条例などが各地方自治体で制定されてきた関係を考えると、ヤクザは家を借りれなかったり、ヤクザの友達になると「親密交際者」として警察からマークされるということを考えると、ニートの友達になっても警察からマークされないわけだから、ニートの方が社会的身分は上なのかもしれない?

まぁ、反社会的勢力というか、違法なことをしているという意味では、最近よく言われる「ブラック企業」と比べた場合に、ニートとブラック企業はどっちの方が社会的身分が上か?という考え方もできる。

ここまで、考えてみると、ニートはかなり社会から蔑視されているが、ヤクザ屋さんやブラック企業の方が、社会に許容されている現実に戸惑うわけである。